まずは産経新聞のウェブ版「不自由展こそ不自由 愛知の企画展・鑑賞会で実感」(2019年10月16日18時7分。
https://www.sankei.com/politics/news/191016/plt1910160028-n1.html
)にアクセス。
注目すべきは、次のコメント。2ページ目から。
最も衝撃的だったのは作品ではなく、公式サイトの取材申し込みの注意事項だった。「誌面掲載、番組放送前に原稿を確認させていただいております。必ず校正段階での原稿・映像等を事前に広報専用メールへご提出ください」。芸術とは無縁の凡人には理解できない高尚なユーモアである可能性は否定できないが、これを「検閲」と呼ばずしてなんと呼べばいいのだろうか。
まず、検閲の定義。コトバンクで確認。
前後するが、「公式サイトの取材申し込みの注意事項」は
で確認。それによると、「誌面掲載、番組放送前に原稿を確認させていただいております。必ず校正段階での原稿・映像等を事前に広報専用メール(略)へご提出ください」とたしかにある。
しかし、あいちトリエンナーレ実行委員会事務局って「公権力」(コトバンクより)なのだろうか?国際芸術祭が「公権力」であるという方に普通の人は違和感を感じるだろう。
ところで、筆者は、最近、上野千鶴子・著『情報生産者になる』(ちくま新書、2018)を読んでいるが、その181ページからに以下の記述が(p181~182)。
研究成果が出たら、その第一読者はインフォーマント。当事者が納得してくれなければ研究成果の公表はできません。自分の事例は使わないでくれ、とか、ここはこんなふうに言っていない、と言われれば、涙をのんで応じなければなりません。たとえ音声記録があって証拠が残っていると言っても通りません。口頭発言の著作権はすべて発言者にあります。そして著作権とは、テキストを書き換える権利のことです。
あいちトリエンナーレ実行委員会事務局がやろうとしているのは、上記『情報生産者になる』の引用部分 と同じではないだろうか?つまり、著作権の行使。
産経新聞の記者に取材を受けた取材対象者と同じことをやっていると思われる。
筆者の見る限り、産経新聞の関係者は、日本語に苦労しているようである。
追記:2019年10月28日
どうも産経新聞、本当に「検閲」という言葉を知らないようだ。根拠の記事は
www.sankei.com (2019年10月27日10時19分)
である。毎日新聞や東京新聞が広告の掲載を拒否したなら「検閲」と例えることもできようが(上記【新聞に喝!】からは確認できなかった)、単に批判することは「検閲」のわけないだろ。