国語便覧(『プレミアムカラー国語便覧』(数研出版、2017)p332)にも載っている先生でもおバカなことを言ってしまうという話。
読売新聞2019年12月2日統合版13版1面・2面に、劇作家・山崎正和さんの「地球を読む あいちトリエンナーレ 表現と主張 履き違え」(以下「地球を読む」またはページ数を表記)があるが、あまりにもおバカだったので、引用しつつ取り上げる。
あいちトリエンナーレにつき、山崎さんは、
あのとき、いったい何が起こったのか。日本における表現の自由は本当に試されたのかどうか。将来の糧となるような説明は今もなお、課題として残されているように思われる
(1面より)と書くが、2面に山崎さん、書いてあるじゃないですか、
事件を直接起こした脅迫犯人、ファクスを隠れ蓑にしたうえで、直近の残虐事件の再現をほのめかした破廉恥漢の卑劣な犯罪は論外である。 警察が早々にこれを逮捕したことは喜ばしいし、はからずもこの実績によって日本社会の言論の自由は護(まも)られたといえる
(2面より)と。
賢人はこれで終了だが、原稿料がほしかった山崎さん、余計なことを書いておバカを晒しちゃったのだから、本当に愚かである。以下、検討する。
ことの発端には企画者の重大な思い違い
(1面)と書いた山崎さんに思い違いが。
に書いてあるから(2019年12月4日現在)、以下、覚えとけよ!
「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する。
が企画趣旨。
山崎さんの
とくに「不自由展」の目玉が現下の外交的争点である、いわゆる従軍慰安婦の問題だと聞くにつけて、企画者は「表現」と「主張」という言葉を取り違えたのではないか、というのが第一印象であった。そもそも企画者は、言論人として、自己表現と自己主張の違いについて一度でも真剣に考えたことはあったのか。二つは似ているように見えるものの、本質はむしろ正反対であることに気づかなかったのであろうか。/少し考えればわかることだが、表現は本来的に謙虚な営みであって、最初から表現相手に対する敬意を前提にしている。 (略)/これに対して、主張は一種の自己拡張の行為であって、根本的に相手に影響を与えて変えようとする動機に基づいている
(1面より)というのは、上記の「企画趣旨」(本文)とは全然関係ない話にしか見えない。最近、三浦瑠麗さんという国際政治学者が論点をずらしまくって嘲笑されているが(一例は
)、山崎さんの話もその類だ。勝手に「表現」と「主張」を定義してそれが全く違う(「本質はむしろ正反対」(「地球を読む」より))ことのように展開しているからである。
それではコトバンクで調べてみるか。
表現(ひょうげん)とは - コトバンク のデジタル大辞泉を見ると、「心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること。また、その客観的形象としての、表情・身振り・言語・記号・造形物など」であり、山崎さんの言う「本来的に謙虚な営みであって、最初から表現相手に対する敬意を前提にしている」(「地球を読む」)かどうかはわからない。
主張(シュチョウ)とは - コトバンク のデジタル大辞泉を見ると、「自分の意見や持論を他に認めさせようとして、強く言い張ること。また、その意見や持論」である。これは山崎説の「一種の自己拡張の行為であって、根本的に相手に影響を与えて変えようとする動機に基づいている」(「地球を読む」)に一致するが、表現と「正反対」(「地球を読む」)かどうかはわからない。主張の強い表現(例えば「〇〇しなければならない」)と主張の弱い表現(例えば「〇〇のようだ」)が成り立つから。つまり、別の概念というのが(現時点で)正しい日本語で、山崎さんが勝手な定義をこしらえているだけである。
ところで、本エントリーは「主張」であることを否定しないが、「表現」ではないというのは違和感がある。というのは、コトバンク「表現(ヒョウゲン)とは」を再度引用すると、「内面的なものを」「言語」という「外面的、感性的形象として客観化」しているわけだから。
閑話休題。
「ちなみに歴史を振り返ると」(「地球を読む」)だとか「長い間、芸術はパトロンを相手とする表現だったものが」(同)だとか、人間社会の発展をわきまえず生きてもいない過去を懐かしんで笑える(嘲笑)。この部分はさっと済まして、次の引用。
明らかに今般の「表現の不自由展」の展示品は、背後にイデオロギーを背負った宣伝手段の典型だろう
(2面)ですか。じゃ、イデオロギーも調べますか。
イデオロギーとは - コトバンク もいろいろな説明がなされているが、デジタル大辞泉によると、「1 政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにおける、歴史的、社会的立場に制約された考え方。観念形態。2 一般に、思想傾向。特に、政治・社会思想。」とある。
おそらく山崎さんは2の意味で使っており、それならば、たしかに、「あのいわゆる従軍慰安婦を象徴する少女像」(「地球を読む」)は、著者の言う「イデオロギーを背負った宣伝手段の典型」と言えなくもない。根拠は
。しかし、だからダメとなると、ピカソの「ゲルニカ」やそれに基づくものも多分ダメだろうなぁ。
パブロ・ピカソ - Wikipedia の「イデオロギー」を参照だが、今、群馬県立舘林美術館でこんなイベントが(2019年12月8日まで)。
群馬県立館林美術館_ピカソ展-ゲルニカ[タピスリ]をめぐって
山崎さん、お願いだから、抗議するのはやめてね。
同じことは「表現の不自由展」の他の展示品、昭和天皇の肖像を用いた作品を燃やす映像についても指摘できるから、残念ながら、この企画は表現と言えないばかりか、主張の展示としても適格性を欠くといわざるをえない。
(2面)とあるので、
(2019年12月4日アクセス)をご覧いただこう。
それによると、「大浦さんはこう言っている。『天皇制を批判するために天皇の写真を燃やしたという、そういう政治的な文脈で受け取られたのかもしれませんが、それは全く違います』」だとか「『天皇と自己を重ね合わせることを思いついたんです。自分の中に無意識にあるだろう“内なる天皇”というイメージですね。自分の中に無意識に抱え込んでいた“内なる天皇”を自画像を描くなかで描いてみたいと思ったんです』」だとか書いてある。内心はわからないが、少なくとも作者のコメントの限りでは、山崎さんの言う「主張」や「イデオロギー」ではない。「主張」や「イデオロギー」と書いた山崎さんの立証が不十分でした(馬鹿笑い)。
引用を続けよう。
もし行政機関が国民の主張の自由を擁護し、積極的に援助したいと真に望むなら、必要なのはなによりも公正性の保持だろう(略)反論の自由を含んでいなければ成り立たないからである
(2面)とあるが、そもそもそういう趣旨のイベントではないことは既に説明した。
問題の韓国人従軍慰安婦の歴史をめぐっては、かねてその細部の事実関係について両論がある。少女像の展示は韓国での多数意見を代表するものであって、日本ではそれに賛同できないという声が強いことも事実だろう。だとすれば、日本の公的機関のとるべき態度としては、双方の意見を公正、平等に代表させることだったはずである
(2面)って、ネット右翼だなぁ(苦笑)。「慰安婦なんてなく売春婦だったんだ!」みたいな話。「少女の時代に動員され」(しんぶん赤旗「「表現の不自由」考える
「少女像」日韓の懸け橋に 制作の彫刻家キム・ソギョンさん キム・ウンソンさん語る」)については、『Q&A 朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任』(金富子/板垣竜太・編著、御茶の水書房、2018年増補版)に(たぶん)ある(2015年版にはあった)。なお、しつこいが、「双方の意見を公正、平等に代表させること」(「地球を読む」)が企画の趣旨ではないのはすでに説明した。一方の意見が展示不許可になった場合にもう一方も展示不許可になったのだろうか?そういう話ではないからズレているのである。
というわけで、「表現の不自由展・その後」の趣旨も理解せず、勝手に概念をこしらえ、「主張」(山崎正和さんの表現)するとは。ぷっ