筆者は最近、青木保・著『異文化理解』(岩波新書、2001)を読了した*1。素晴らしい本であった。異文化理解について多岐にわたる内容であった。
おそらく、青木『異文化理解』を読んだ読者が一番印象に残るのは、青木がタイで僧院に入ったことであろう*2。Ⅱ・1「バンコクの僧修行」の部分である。
それは読者各自で読んでもらうとして、本記事で取り上げるのは、以下の引用である。なお、以下の引用の選択は、あくまで筆者の恣意かつ責任で、青木の主張と異なる可能性があることをあらかじめお断りしておく。
日本人はどうも自己完結的というのか、外来文化を日本文化の中で消化しようとしてしまう。外から伝わった文化の要素でもいつの間にか日本文化になってしまっているということが多く、それで、逆に異文化をあまり意識しないのではないでしょうか。(青木保『異文化理解』p.105)
中国文化をきちんと異文化として見てきたかというと、意外とそういう努力は専門家は別として一般に何もしていないと思うのです。(略)異文化としての中国をきちんと位置付ける必要があると思うのです。(略)中国の文化と社会と人間を知るための授業を中学校くらいから設けたり、中国語の学習の機会をふやしたり(以下略)(同前 p.158)
近隣国の中国や韓国を「異文化理解」の対象として正面から捉えるという視点を、近代日本は持つことができませんでした。(略)私の世代では中国語も韓国語も、一部の専門家を除き、まともに学習する機会は学校で与えられませんでした。(同前 pp.190-191)
これらから筆者が思っていたのは、漢文を書き下すことと、K-POPの日本語バージョンである。
まずは漢文の書き下し。筆者は中国語が全くできないが、日本の中等教育で学ぶ漢文の書き下しが中国人の読み方とおそらく違うであろうことは想像できる。中等教育の漢文をやめて、中国語を習って、その方法で読んだ方がいいのかもしれない。
次はK-POPの日本語バージョン。K-POPも*3ビジネスなので、売れることが大事。それ故に日本語で(も)歌うということなのだろう。それはありがたいが*4、日本語話者であれば、それに甘えず、韓国語の学習をして、オリジナルを理解するように努力した方がいいということなのだろう。
以上が筆者なりの『異文化理解』の理解の一例であるが、読者のみなさんはどう思いますか?
*1:勝手ながら、青木『異文化理解』は、hontoのサイトでレビューした。
https://honto.jp/netstore/pd-book_02054169.html からお探しあれ。名義は「清高」。加えてその理由はhontoのサイトから探してください。本記事ではその理由を示さない。
*2:筆者の考えの押し付けとの非難は甘受するも、読めばわかってもらえると信じる。
*3:流行音楽一般がそうだから。
*4:「日本語で 歌うの実は いいことだ」をご一読。
https://kiyotaka-since1974.hatenablog.com/entry/2023/01/03/214002