清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

(教育基本法改正記念?)読売の 教育記事は おかしいよ②社説編

今度は社説。全文を読みたい人は右記のサイトにアクセスしてください(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20061215ig90.htm

読み進めていくと、(1)「流れを変えた要因の一つは、近年の教育の荒廃だった。いじめや校内暴力で学校が荒れ、子どもたちが学ぶ意欲を失いかけている。地域や家庭の教育力も低下している。」とあるが、「近年」ならば、教育基本法のせいとはいえない(もしそうなら、昭和50年ごろにすでに上記のことが起きていたのではないか)。

(2)「現行基本法が個人・個性重視に偏りすぎているため、「公共の精神」や「規律」「道徳心」が軽視されて自己中心的な考え方が広まったのではないか。新たに家庭教育や幼児期教育、生涯教育などについて時代に合った理念を条文に盛り込む必要があるのではないか。そうした指摘」に「説得力」はない。現行教育基本法第1条によると「教育は、人格の完成を目指し、平和な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」のだが、これのどこが「個人・個性重視に偏」っているのか(「平和な国家および社会の形成者」「勤労と責任を重んじ」とあるので、決して「自己中心的な考え方」ではない)。ちなみに、個人という言葉は、前文と全11条のうちで2回しか使われていない(前文、第1条各1回)ので、やっぱり「個人・個性重視に偏っている」とはいえない。

(3)「「愛国心」をめぐる」論争は「不毛」なのか。反対論は「「愛国心の強制につながり、戦争をする国をさせる日本人を作る」など」といっても、多岐にわたる(広田照幸さんの本や、私の反対意見(「教育基本法」で当サイト内検索)を参照)ので、「基本法の改正を「改悪」を罵り、阻止するための道具に使った」とはいえない(広田さんや私は、教基法を一字一句変えるなといっているわけではない)。

(4)「平和国家を築き上げた今の日本で、自分たちが住む国を愛し、大切に思う気持ちが、どうして他国と戦争するという(中略)発想になる」のか。理由は二つ。一つは日本の伝統を尊重した結果(改正教基法第2条第5号)。もう1つは、「愛国心」論者が防衛に関して声高に叫んでいるから(防衛を語るなという趣旨ではない)。決して、「ゆがんで」いるわけではない。

(5)「改正基本法の」「精神にのっとって、日本の歴史や伝統、文化を尊重し、国を愛する心を育てるような教育」は完全には行われない(言うことを聞かない人はいつの世にもいる)。

(6)「改正基本法愛国心や伝統・文化の尊重、公共の精神などが盛られたことで、社会科や道徳の指導内容が変わってくる可能性がある。愛国心などの諸価値は、どれも国民として大切なものだ」ろうが、現在の教育問題の解決には、むしろ「個人の尊厳を重んじ」たり「個人の価値をたつと」ぶほうが大事だろう(いじめ問題を想起)。

(7)「学力低下」「必修逃れ(この用語は教育を受ける者の立場に立ってないので、不当。むしろ「履修漏れ」のほうが良い)」「小学校の英語必修化」「教員免許」など、これらは教育基本法とは関係ない(改正しなくても何らかの政策を立案できる)。

(8)「国が大枠の方針を示すこと(「教育振興基本計画」(改正教基法第17条)の策定?)は公教育の底上げの意味でも必要だ。同時に、学校や地域の創意工夫の芽が摘まれることのないよう、現場の裁量の範囲を広げる施策も充実させてほしい。」とあるが、「国が大枠の方針を示」そうとしすぎたため、「学校や地域の創意工夫の芽が摘まれ」、「現場の裁量の範囲を広げ」られかったのが問題なのではないのか。

(9)「焦る必要はないだろう。」それならば、教育基本法の改正を「焦る必要はないだろう」。改正より、まずは現実の問題を解決するほうが先だろう。

このように、今日の読売新聞の記事、ならびに社説は、はしゃぎすぎなのか、おかしなところが多々あった。これが日本で一番読まれていることが本当の危機かもしれない(といいながら、私は自己の都合があって読売新聞を今後も読むのだけれど)。