清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

国旗国歌で 処分をしたって いいんだよ(?)

今日の読売新聞朝刊社会面34頁によると(仙台では)、東京都日野市立小学校の入学式で君が代日本国歌)のピアノ伴奏を拒否したことを理由に懲戒処分を受けた音楽家の教諭が、「伴奏を指示した校長の職務命令は、思想・良心の自由を侵害するもので違憲」などとして、都教委に処分の取り消しを求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷は口頭弁論を開かず、判決言い渡しを今月27日にすることを決めたという。これにより教諭側の訴えを棄却して1、2審判決が確定する見通しとなったそうだ。

1、2審判決では、「公共の利益のために勤務する公務員は、思想・良心の自由も制約を受ける。伴奏を命じた職務命令は、合理的な範囲内」ということで、教諭側の訴えを退けたという。

最高裁判所の判決は私の予想通り。だが、この判決の結論が妥当かは、疑問を持っている。

まず、「入学式で君が代を伴奏する」ことのどこが「公共の利益」なのだろう。私は式典で君が代を歌った記憶がないが、それでいて特におかしいと感じたことはない。また、本件では、テープなりCDなりで演奏すればよく(表現内容中立規制におけるLRAの基準を借用するような考え。芦部信喜憲法』(岩波書店)新版補訂版p188参照)、ピアノ伴奏が不可欠とはいえない。そういうことが「公共の利益」というのは解せない。個人的には、こんなにもめるのならば国歌斉唱などやらなければいいじゃないかと思う。このことで教育現場が混乱するのならば(処分されたり混乱したら普通先生を尊敬しないだろう)、やらないことで先生を尊敬させることも立派な教育だと思うがいかがだろうか。歌いたければ、図書館で君が代のCDでも借りて自宅で歌えばいいので、「歌うことも権利だ」という趣旨の主張は通用しない。

まぁ、「公共の利益」にあたるとしたら、「音楽の授業」で教えることだろう。すなわち、音楽の授業で教えるべきところを教えなかったとしたら(テープやCDを用いてやればいいのは言うまでもない)、懲戒されてもやむを得ないところがあろう。しかし、教育は必ずしもカリキュラムどおりに進まず、習わないところも出てくることからすれば(日本史の近現代史を詳しく教わりましたか?)、音楽の授業で教えなかったからといって即懲戒処分にするのは難しいだろう。

一方、野田正彰さんの本によると(『させられる教育―思考途絶する教師たち』『子どもが見ている背中―良心と抵抗の教育』(ともに岩波書店)を一読してください)、君が代に反対する教諭(一般論)は、大日本帝国下における朝鮮半島でのキリスト教徒に対する神社参拝強制(一神教だから宗教弾圧といえる)や戦争における大日本帝国の加害責任を考慮しているという。これらのことは当然「世界観」(芦部『憲法』新版補訂版p139)として憲法上の保護を受けるべきである。というわけで、この事件について、裁判所が音楽教諭の訴えを認めないのは不当だと考える。

なお、式典で国歌斉唱のときに起立しない教諭についても一言しておく(いわゆる「予防訴訟」もこの判決の影響が及ぶであろうから)。起立しないことは結構難しい。起立すべきところを起立しないことで混乱を起こしているといえるし、沈黙しているのだから式典に影響がないともいえるからである。だから、訴訟のリスクを回避しつつ君が代に反対するならば、起立した上で歌わないという手段しかないだろう。もっとも、これについても調べるとの噂もあるが、そこまでするのは異常だ。

(追記)2月27日、正式に上告棄却が言い渡された。判決要旨を見ていないのでなんともいえないが、日本経済新聞http://www.nikkei.co.jp/news/main/20070227AT1G2702E27022007.html
によると、「伴奏を求めた職務命令は原告の歴史観や世界観自体を否定しない」のだそうだ。でも懲戒処分を受けているんですよ。やり過ぎでは。また,校長自らが指揮を執ったり、伴奏したりして、汗を流すのもよいのではないか。私は学校の校長に特に印象に残った人はいない。もし、校長先生が自ら君が代を伴奏したり指揮したりしたら、音楽教諭が伴奏するよりも、国歌を大事にする心が生ずるように思うが、いかがだろうか。法律論としては成立しないだろうが、私は一考に値すると思うけど。

(追記)判決要旨が2月28日の読売新聞朝刊11頁(仙台では)に載っていました。それに沿って検討した右記記事もご覧ください(http://blogs.yahoo.co.jp/kiyotaka_since1974/29105404.html