清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

本日の 読売新聞 ちょっと待て

今日の読売新聞朝刊は、1頁と2頁に、「ちょっと待て」という内容があった。

1、まず、1面。大修館書店の「体育科教育」の特集、『体育は「いじめ」に何ができるか』。続きを読むと、「いじめによる子どもたちのの自殺や不登校、学級崩壊などの問題が急増している。これらの背景には、子供の心の硬直、自尊心の低下、対人関係を築く力の低下等があるのではないか。」

まず、たかだか週3回の体育科が、「いじめ」に何かできるとは思えない。まあ、ストレス発散ぐらいにはなるのだろうが、それなら今でもいじめはゼロのはずだがら、その効果もたいしたことはない。

「続きを読むと、」以下を検討すると、これを大人の自殺に当てはめることができるのか。たとえば、

「(会社による)いじめによる大人たちの自殺や出社拒否の問題が急増している。これらの背景には、大人の心の硬直、自尊心の低下、対人関係を築く力の低下等があるのではないか。」

もしこう書かれたら、皆さんどう思われますか。やはりおかしいと思うのではないか。たとえば、「被害者の俺が対人関係を築く力の低下?」「俺の心が硬直?何それ?」と思うのではないか。

もちろん子ども独特の原因を探求するのは結構なことだ。しかし、子供も大人も人間なのだから、大人に通用しない理屈を子供にだけ通用するかのような問題意識、結論は避けるべきではないか。もし子どもに独特の原因があるのならば、きちんと根拠を示してほしいものだ。

2、よみうり寸評3月17日夕刊(仙台では1日遅れ)
内容は裁判員制度の広報。しかし、弁護士(会)に対する偏見を助長する内容で良くない。以下、ちょっと長い引用になるが、それに基づいて検討する。

「(日本弁護士連合会が監修した漫画「裁判員になりました」によると、)被告人が殺人事件の犯人であることについて、裁判員が次々と疑問を示し、最後に無罪を言い渡す(改行)
 物語中の捜査は、あまりにずさんで現実的ではない。裁判官も実際より、固定観念にとらわれすぎている。だが、市民の参加の重要性を訴えるには、仕方ない舞台装置なのだろう(改行)
 気になったのは、(有罪とすることに対する)合理的な疑いの説明だ。その余地があれば無罪になる。漫画では「みなさんの良識に基づく疑問」とされているが、それでいいのか。弁護側と検察側が鋭く対立してきた問題だけに、統一見解を示してもらわないと安心できない(改行)
 一方で、最高裁が新たに企画・製作した広報映画「裁判員」。どんな過程を踏んで裁判員に選ばれるのか具体的に描かれていて、いくらか不安が解消される(以下略)」

(1)まず、「物語中の捜査は、あまりにずさんで現実的ではない。裁判官も実際より、固定観念にとらわれすぎている。」のところだが、たしかにこの記事を書いた人の取材経験ではそうなのだろう。しかし、弁護士の目から見たらまた違うのも当然であり、後述の最高裁の広報映画に対する批判のなさと比べると、弁護士の見解も尊重しなければ公平ではないだろう。ここは、私ならこう書く。すなわち「私が取材した限りでは、この漫画のような事実はないが、市民の参加の重要性を喚起するには、わかりやすい内容になっている」

(2)次に、「気になったのは、(有罪とすることに対する)合理的な疑いの説明だ。その余地があれば無罪になる。漫画では「みなさんの良識に基づく疑問」とされているが、それでいいのか。弁護側と検察側が鋭く対立してきた問題だけに、統一見解を示してもらわないと安心できない」のところ。

「合理的な疑い(を超える)」というのは、判例によると、「通常人なら誰でも疑(い)を差挟まない程度に真実らしいとの確信」(最高裁判所判決昭和23年8月5日刑事判例集2巻9号1123頁。松尾浩也刑事訴訟法(下)』(弘文堂法律学講座双書)p23から引用)のことで、とりあえずこれが「統一見解」である。これをわかりやすく噛み砕いただけの見解を批判してもしょうがないだろう(個人的には漫画と判例の言っていることは違うと思う(漫画のほうが無罪のハードルが低い(検察側に要求される証明の水準が高い)ように感じる。もっとも、判例でも無罪のハードルを低くしようとしている))。 

(3)最後に、「一方で」以下だが、スペースが足りなくなったのか、たいした批判もせず、映画の出来を褒めるだけ。これでは観る前から弁護士会の漫画に悪印象を持ち、最高裁の映画に好印象を持ってしまうので、不公平ではないか。

(4)あと、読売新聞のほかの記事も(今日の記事ではない)、裁判所や検察は善で、弁護士は悪というトーンの記事が目立つ(代用監獄廃止論に消極的なところなどから推測)。それぞれ立場があるのだから、一方の立場だけ批判せずに、どの立場も批判しないか、どの立場も批判するかのどちらかに統一しなければ公平ではないのではないか。