昨日と、今日の朝刊に、梅原猛さんと、藤原正彦さんの対談、「子どもたちの教育」が載っていた。いい意味でも、悪い意味でも、面白い対談だった。以下、検討する。
1.上(2008年4月10日朝刊13頁(仙台では))
まず、国語の重視には問題がない。「宗教だから教えない、というのは間違っている」(梅原さん)。しかし、学校で宗教を教えるのは難しい。日本は、公権力と宗教は完全に分離している建前(憲法第20条。特に第3項)であり、それが妥当だからである(戦前の神社参拝強制など)。
読み進めると、「今は小学校から大学まで、役立つ学問ばかり重視する」ことを藤原さんは嘆いているが、それはそう思う。また、その次に梅原さんの漢文の教養に言及しているのも悪くない。
さらに進めると、「日本のモノづくりが世界一だというのも、この美的感受性がある」と藤原さんは言っているが、これを賞賛するのは留保したい。島田荘司さん(『死刑の遺伝子』(南雲堂)参照)のように、排除につながるとする説もそれなりに納得の行くものだったからである。
この日は、藤原さんの以下のコメントが締めだ。いわく、「(前略)そんな奥ゆかしさも、日本文化の特徴ですね。日本人が自信を取り戻し、独自の文化に親しむ社会になればいいのですが。」このコメントを見た限りでは、藤原さんは日本人とは思えないし(自慢する人が「奥ゆかしい」か?)、日本人が「独自の文化に親し」んでいないとすれば、自信がないというより、他国の文化に優れたところがあるからではないのか。私は、他国の文化に親しむ人の方に、いい意味での寛容さを感じる(もちろん、日本の文化に親しむべし)。
2.下(2008年4月11日朝刊14頁(仙台では))
この日は、のっけからトンデモ発言が。「モラル崩壊の原因の一つは何でも自由だ、権利だという米国文化の影響でしょう」(藤原さん)。まず、モラル崩壊の根拠は?自由や権利を主張できなかった時代に比べたら、モラル崩壊の方がマシではないか?以上2点により、トンデモ発言とした。
読み進めると、「縄文時代から、「卑怯はいけない」「弱者に優しく」という思いやりを、日本人は持っていたのではないか」(藤原さん)って、それなら少なくとも朝鮮人も持っていることになるし(朝鮮半島から祖先が来たと聞いたことがある。それはさておき、もっと言うと、どこの国でも持っているのではないかと思う)、そもそもその頃は、「日本」と言える国家はあったかなぁ。なお、「縄文時代」が出てきたのは、梅原さんが対談者だからだろう。
道徳教育につき、「変に強制するより、素晴らしい文学を読」むほうがよいという意見(藤原さん)は、慧眼だと思う。また、「道徳教育と愛国心、日の丸、君が代と結びつける」という梅原さんの批判も素晴らしい。
しかし、両者とも、愛国心を語っているのはいかがなものか。まずは、自分を好きになることの方が大事だと思うが、なぜ語らないのか(このあたりは、(大げさに言えば)哲学の問題で、どちらが正しいと言うことはない)。
その次、「ところが今は、読書をしません。夏目漱石を知らない人がいるんですから」はトンデモ発言だ。夏目漱石を知らないから読書をしないことにはならないし、もしかしたら、夏目漱石は淘汰されるかもしれないからである(読者の皆様は、読んでいると思うが。まだの人も新潮文庫あたりで)。
最後に、「日本人は太古の昔から、人間なんて自然のほんの一部だと、非常に謙虚だった」(藤原さん)と言うのは、謙虚でもなんでもないと思うが。
示唆に富む対談だったが、ところどころどうかと思うところがあり、二人もまだまだ教育が必要かと思った次第である(もちろん、私にはそれ以上必要なのは言うまでもない)。これが、冒頭の、「いい意味でも、悪い意味でも、面白い対談」という意味である。