清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

新潮は 事件を親の せいにする

どこの新聞にも日曜日には読書欄があるものだが、昨日の読売新聞朝刊11面(仙台では)には、「文庫新書」と題して、新書の紹介があった。その中で興味を持ったのは、『身内の犯行』(橘由歩 新潮新書)の紹介文。いわく、「昨今の殺人事件の半分は身内の犯行と言うデータがある。(中略)被告の共通項はDV家庭で育ったこと。ゆがめられた子供時代の体験が人生に大きな影を落とすことが浮き彫りにされる。(以下略)」とのこと。

詳しくデータを見たことはないが、一説では、見ず知らずの人が加害者である殺人事件は、とりわけ日本では少ないそうだ(アメリカは多いらしいが、一般論としては、見ず知らずの人が加害者である可能性は低いらしい)。また、「DV家庭で育った」、「ゆがめられた子供時代の体験」があるからって、犯罪を犯すわけではないだろう。

新書の発行元の新潮社、なぜか選書のフェアをやっているが、そのパンフレットにも興味深い対談が。それは、「人を生かすのも殺すのも言葉 新潮新書『無差別殺人の精神分析』をめぐって」(片田珠美(精神科医)=重松清(作家))。以下、片田さんの興味深い発言を、引用しつつ検討する。

秋葉原事件が起こったとき、「派遣切りのせい」「母親のスパルタ教育のせい」などと、いっせいに「犯罪探し」が始まりました。それらが必ずしも間違っているわけではないのですが、「格差社会」「学歴社会」など、どんどん大きな言葉で語られていく状況には違和感があります。むしろ容疑者の言動、とくに「言葉」に立ち返って分析しなければ、問題の解決にはつながらない」→一理あるが、わざわざ「大きい言葉」を排斥する必要もあるまい。多角的に検討すればよい。

「母親自身の半生がかかわってくる」→分析結果がそうなのかもしれないが、『身内の犯行』の紹介文と合わせて考えると、新潮社らしく、親のせいにしたいという方針で書かれたのかな?

「「病のせい」か「社会のせい」という乱暴な二元論ではなく、「まず病の芽があって、それが社会環境の中でどう育ち、そして何が引き金となって殺人という「最後の一線を踏み越えさせてしまうのか」と複合的に考えていくことが大切です。秋葉原事件の」被告人「のように「彼女ができない」「正社員になれない」という悩みを抱えている若者はたくさんいますが、そのほとんどは犯罪とは無縁です。単純に格差社会のせいにすることができないのは明らかです」→それを言っちゃ、「病の芽があって」も、「そのほとんどが犯罪とは無縁で」(一説では、精神病者は健常者より犯罪を犯さないそうだ)、「単純に」「病(の芽)」「のせいにできないのは明らかです」ともなろう。

「たしかに秋葉原事件でも、母親の問題ばかりがクローズアップされましたが、むしろ父親の存在感のなさのほうが気になります」→ここでは、露骨に親のせいにしている。確か一人暮らしだったはずで、親の話しをグダグダしてもねぇ。

この他、パンフレットをお読みにならばわかるが、片田さんらは、私に言わせると、頑なに社会のせいにするのを拒み、本人の内心、ならびに家族のせいにしたがっているようにしか読めない。なぜ狭く原因を探求するのか。広く原因を探求して、反省すべきところを反省すればいいのではないか。

それにしても、新潮社が頑なに本人や家族に帰責させたがるのはなぜだろう?本人はやっていれば仕方ないが、子が加害者にされそうな親の苦悩は考えない非人間的出版社なのだろうか?社会問題を世に問うことを放棄してしまったのだろうか?