清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

国家がね 首絞めて殺す それが死刑

上記asahi.comによると、「12日発売の写真週刊誌「フライデー」(講談社)が、1994年の連続リンチ殺人事件で死刑が確定した元少年(中略)について、判決確定前の3月11日に名古屋拘置所内で撮影したとする写真を掲載した」という(以下、断りのない限り、上記asahi.comからの引用)。
 
「フライデー編集部は「載せる意義があると考えた」」(上記asahi.com)という。読売新聞2011年5月12日朝刊13版21面(仙台では)の広告を見てみると、「死刑の意味を当スクープ写真」という。
 
asahi.comに戻って、「涙をぬぐう」とある。この涙に何らかの意味を付与したいようだが、何の意味もない。
 
死刑の意味、それは、国家が、首を絞めて人を殺す、それが第一義である。死刑囚が反省しようが、遺族感情が峻烈だろうが、それらは本質ではない。国家が首を絞めて人を殺すところから死刑についての議論は始めるべきだろう。死刑廃止が主流とされる理由の一端に触れられるかもしれませんぞ。
 
それよりも、フライデーが取り上げるべきだったのは、犯行「当時18~19歳」の人に死刑を科すことが不当であるということである。選挙権もなく(例えば、公職選挙法第9条)、法定代理人の同意がなければ法律行為もできない(民法第5条第1項。例外もある)未熟な人間に、死という究極の責任を負わせることがいいわけがない。
 
もちろん、18歳以上の人に死刑を科すことが国際人権法上もできないわけではない(市民的及び政治的権利に関する国際規約第6条第5項、児童の権利に関する条約第37条(a))。しかし、それは、保護されるべきだという趣旨によるもののはずである(児童の権利に関する条約前文を一読されたし)。日本の法体系では、20歳未満は保護する原則なのに、死刑は18歳、19歳でも科するというのは背理である。死刑存置が妥当だとしても、このような法制度は、厳しく批判されても仕方ないだろう。
 
(2011年5月19日追記)続編「国家がね 首絞めて殺す それが死刑(2)」(http://blogs.yahoo.co.jp/kiyotaka_since1974/51983456.html
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