清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

首長善 国の政治家 悪だった

最近感銘を受けた雑誌の記事を1つ。

週刊現代』2011年7月9日号(紹介が遅れて申し訳ない。バックナンバーは地道にお探しを)、日垣隆(敬称略)「なんなんだこの空気は メディア考現学 連載第91回 なんとなく流れる定義なきレッテルに、誰も抗い難い」である。

私が読んだ限りで主旨を書くと、マスメディアは、たいして定義を用いずに言葉を使うが、首長の場合は大して批判しないのに、国の場合は批判するのはおかしいのではないか、というものである。

なかなかいい記事であった。以下、2、3検討する。

「実際、行政手腕という語が頻繁に使われていたにもかかわらず、その定義はまったく曖昧(あいまい)だった(中略)そのメダルの表裏として、再選をめざす現役トップの「行政手腕」を徹底的に点検することも怠られてきた(中略)現職批判をする地元メディアは皆無と言ってよかった」(『週刊現代』2011年7月9日号p164)→「地元メディア」だけではなく、全国メディアでもめったに聞かない。

知事は「最低でも2期はないと『自分ならではの、かつ最良と思える大きな仕事は一つもできない』」(同 p165)一方で、「国のトップが何らかのスキャンダルを理由に、いつも引きずりおろされるのとは対照的だ。それを大マスコミは『政局』と呼び、記者たちは政治そのものに無関心なくせに、トップおろしという名の政局にだけは異様な量のドーパミンを出す。そのような空気は、菅総理に関してもまったく同様、既にできあがっている」(同 p165)→福島、宮城、岩手、佐賀、どの事例を見ても、この見解の応用で見られる。首長は批判されましたか? 国の政治家は発言内容や政策を検討したうえで批判されていますか?

おおむねマスメディアは、地方の首長善、国の政治家悪、というバイアスに基づいて記事を出している、とみてよい。だから、ニュースを受け取る側は、一歩引いて、何が狙いか、背景は何か、など熟慮することが必要なようだ。

*2011年8月12日追記

同様と思われる(「マスメディアは、たいして定義を用いずに言葉を使う」ということであって、「地方の首長善、国の政治家悪、というバイアス」についてではない)問題意識の文章を発見した。それは、岩波書店『世界』2011年9月号、神保太郎「メディア批評」である。「メディア批評」p219によると、「菅首相が『脱原発依存』と言い出したのは、世論の七〇%が『脱原発』だから、それに迎合しただけ。もしもその記者が七〇%の側にいたら、『迎合した』とは言わず、『民意を反映した』とでも言ったのではないか」という。私もそう思うし、正論として問題ないだろう。