読売新聞2011年11月7日朝刊12版12面「論点スペシャル 若者の現実と未来」(以下、「論点スペシャル」)に目が行った。本エントリーでは、「論点スペシャル」を検討する(以下カギカッコ内は、断りのない限り「論点スペシャル」からの引用)。
識者は、『絶望の国の幸福な若者たち』が売れている、社会学専攻の古市憲寿(ふるいちのりとし)さんと、当ブログでも取り上げたことがある、労働経済学が専門の大竹文雄さん(当ブログ「大竹文雄」(強調)内容検索の結果は、http://blogs.yahoo.co.jp/kiyotaka_since1974/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C2%E7%C3%DD%CA%B8%CD%BA&sk=1) 。
古市さんによると、「生活満足度は過去40年間で一番高い。2010年の内閣府調査では、20代の7割が現在の生活に「満足」だと答えた」んだって。これらの調査は未調査なので、本エントリーでは前提とする。
「高齢者は恵まれ、若年層はかわいそうという安易な図式で見るべきではない」は「安易な図式」の可能性があろう。どれくらい払って、どれくらい給付を受けられるかのデータでは、「高齢者は恵まれ、若年層はかわいそう」以外の解釈は出てこないはずだが(若年層のほうが支給年齢引き上げなどの影響・可能性があるので、問題ある解釈とは言えない)。
「米国発の犯格差デモが『若者の反乱』として各国にも広がり、東京でもあった。僕も行っていたが、参加者が少なく、年齢的に若者と呼べる人がほとんどいなかったのが印象的」は、たぶんそうなのだろうが、「印象」論で済むならば、社会学っていらないんじゃない?
「『日本を変えよう』なんて大きなことを言う前に、身近な関係からできることがある。例えば友達とサークルを作って、地方選に候補者を一人出してみるとか。デモよりそのほうが楽しそうだし、現実感がある」は、おバカ発言である。植田滋記者の寸言「大竹氏が『競争と公平感』(中公新書〉で指摘していることだが、高齢化社会にあると、「多数派」である高齢者の政治力が強くなる、そうなると高齢者の要求が政府に反映されやすくな」るのだ。高齢化社会を否定するデータがない限りは、高齢化を前提として進めるべきであり、そうすると、「地方選に候補者を一人出してみ」たところで、高齢者が多ければ、若者の主張をしたところで、当選は難しいだろう。「候補者を一人出してみる」ことを否定はしないが、デモは有力な手段のはずである。古市さんは、おそらく(主体的に)デモをしたことがないんじゃないだろうか?(私もないが) 『活動家一丁あがり!』(湯浅誠/一丁あがり実行委員会、NHK出版新書、2011)でも読んで、間接体験からでも始めるべきだろう。付け加えると、「デモ」が「楽しそう」な人もあろうが、そうでない人がいても仕方がないだろう。切羽詰まってやっているのかもしれないのだから。
次は大竹文雄さん。
「時代を超えて、若者の平均的な幸福度は高い」んだって。どうなんだろう。
「現在、先進国に共通して起こっている現象は、グローバル化とIT化の進行で途上国と先進国の未熟練労働者が競争するようになり、そのしわ寄せが若者に集中している」という認識はいいのだが、「なぜ日本の若者の間で反格差デモが盛り上がらないのか、英米では成人すると親から独立し、職に就けないと貧困や社会的孤立に陥って屈辱を味わう文化があるのに対し、日本では成人後の親との同居、すなわちパラサイトが容認される文化があるため」というのは怪しい。スタインベック『怒りのぶどう』(新潮文庫など)では、主人公は家族で過ごしていたけどなぁ。現在にそういうものがないとすれば、何らかの変化があったからであって(親の所得の問題、産業構造の変化、など)、「文化」じゃないんじゃないか? 一方、日本では、民法第877条第1項で「直系血族(中略)は、互いに扶養をする義務がある」となっている。民法は昭和22年に改正されたので、以前は何とも言えないが、このような決まりがあることが「パラサイト」を促しているということはないのだろうか?
ただ、この2人の文章を見たところ、大竹さんのがよく言われていることなのに対し、古市さんのは印象論のきらいが強く感じ、大竹さんの勝ちだと私は思う。