朝日新聞デジタル「元裁判員がストレス障害 審理で被害者の悲鳴や遺体画像」(2013年4月18日19時17分。http://www.asahi.com/national/update/0418/TKY201304180098.html
言うまでもなくお気の毒である。ただ、こういうことがあるから、司法の民衆参加である裁判員制度をやめようというのは、短絡的である。
ところで、以下は印象論だが、日本のニュースは、凄惨な殺害現場が、死体とともに映ることは、まずない。以前、『ビルマVJ 消された革命』という映画を見たが(
kiyotaka-since1974.hatenablog.com
参照)、その映画には、日本人ジャーナリストが、銃で撃たれ死ぬシーンがはっきり映っていた。その他、外国のドキュメンタリーでは、人が実際に殺されるシーンが流れることがある。
日本のニュースだけ見ると、人が殺されることを見ることに関する耐性がゼロになりやしないかと心配である。日本のニュースも、食事時と思われるときは除いて、夜のニュースぐらいは、現地映像であればそのまま映す(殺されるシーンも)方がいいのではないかと思ってしまった。もっとも、司法に民衆が参加している国には、一部民衆にストレス障害が発症することは、数件はあるのだろうと根拠もなく推測した。
報道を見ると、被害者のケアや、裁判員のケアはよく言われる。それはいいのだが、裁判を受け、究極的には命を奪われるかもしれない被告人に対しては、裁判員制度の押しつけでいいのか、と思ってしまう。アメリカみたいに、陪審か専門裁判官だけの審理かを選べるようにする、日本で言えば、裁判員裁判か(事実認定を民衆がやる陪審も選択肢に入れていいが)専門裁判官だけの裁判かを選べるようにする、という風にはならないものか。以前の日本には陪審制があったが、ほとんど使われることがなかった。そんな歴史を振り返ると、被告人が選べれば、ストレス障害を発症する人を限りなく少なく出来そうな気がする。