清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

抗議にね 差別と弾圧 垣間見え

週刊朝日』が、橋下徹大阪市長について書いた記事が市長の激怒を買い連載打ち切りに追い込まれた件(「石原と 佐野眞一らは 同じだな」(http://blogs.yahoo.co.jp/kiyotaka_since1974/53437446.html   )につき、自由同和会中央本部(私の知るかぎり、真っ先に抗議文をインターネット上にアップした)と、部落差別解放同盟中央本部とが、『週刊朝日』に抗議文を送った。以下において、①と②;を若干検討する。

自由同和会中央本部「週刊朝日の緊急連載「ハシシタ 奴の本性」の記事に対する抗 議 文」(平成 24 年 10 月 18 日。http://www.jiyuudouwakai.jp/asahi.pdf   )

②部落差別解放同盟中央本部「声明 『週刊朝日』(2012年10月26日号)掲載記事「ハシシタ 奴の本性」に関する抗議文」(2012年10月22日。http://www.bll.gr.jp/guide-seimei20121022.html   )

まず①。「週刊新潮週刊文春と同様な内容」か否かについては、両誌は未読なので検討しない。

「橋下市長の人格形成とは全く関係のない実父や従兄弟の事件を関係づけ、修羅が渦巻いている」という内容はあるが、「橋下市長の人格形成とは全く関係のない実父や従兄弟の事件」というのは、素直に頷けない面もある。大抵の人は、あの子は親に似ている、ぐらいのことは言うのではないか? 親と子は別人格だから能力も性格も別だ(私は一理ある考えだと持っている)、よりは、子は親に似ている、という方が違和感がなかろう。子は親に似ていると言ってはいけないことに、どれだけの人が同意するのだろうか?

また、政治家ならば、人となりを「出自を絡め」ることが(私はいいとは思わないが)そんなにおかしいだろうか?「橋下さんの 言論弾圧 成就する」(http://blogs.yahoo.co.jp/kiyotaka_since1974/53495159.html    )で取り上げた、NHK-BS1「BS世界のドキュメンタリー」を見てもらいたいものだ(母親の自由な気質を受け継ぐという趣旨も悪くなるが、それでいいのか?)。

次は②。「憲法に保障された表現の自由を尊重し、公人である政治家にはプライバシー権に関し、一定の制限があることも理解しています。さらにこうした問題が発生したことによって、橋下氏に対する正当な批判が抑制されたり、メディアの権力監視活動が萎縮することがあってはならないと考えています」と建前は書いてあるが、以下の内容では「正当な批判が抑制されたり、メディアの権力監視活動が萎縮する」懸念があると言われても仕方がない。

と啖呵を切ったが、部落解放同盟の見解にも一理。「記事の中に「日本維新の会」の旗揚げパーティー会場に参加していた人物の言葉を引用して「橋下さんの父親は水平社あがり(被差別部落出身)で、それに比べて母親の方は純粋な人やと思う」と記述されています。この表現では、「母親の方は純粋な人」で「水平社あがり(被差別部落出身)」は「純粋でない」と間接的に言っていることになります」と、「被差別部落出身は「純粋」ではないと言っていることになり、被差別部落出身者全体に対する偏見を助長することにもなります」のところ。「石原と 佐野眞一らは 同じだな」では見落としてしまった。

ただ、『週刊朝日』「本文記事中で「この連載で橋下の政治手法を検証するつもりはない」「私が解明したいと思っているのは、橋下徹という人間そのものである」「一番問題にしなければならないのは、敵対者を絶対に認めないこの男の非寛容な人格であり、その厄介な性格の根にある橋下の本性である」とした上で、「そのためには、橋下徹の両親や、橋下家のルーツについて、できるだけ詳しく調べあげなければならない」とし、「橋下家家系図」なるものまでが掲載されています。/これは橋下徹氏の政策や政治手法を批判する記事ではなく、被差別部落出身を暴く調査をおこなうことを宣言して書かれた明確な差別記事であり、2011年に橋下徹氏が大阪市長選挙に立候補した際に掲載された一連の週刊誌報道とも一線を画する確信犯的な差別行為である」というのは、言い過ぎで、「正当な批判が抑制されたり、メディアの権力監視活動が萎縮する」懸念があると言われても仕方がないし、「公人である政治家にはプライバシー権に関し、一定の制限があることも理解して」いない暴言である。そもそもは、光市事件弁護団に対して懲戒請求を煽ったり、(職務遂行能力と直接関係ある場合が少ない)大阪市職員に対する入れ墨調査(これらは『週刊朝日』に書いてあるが、部落解放同盟の声明では引用されていない。恣意的な引用との批判は免れない)の背景を探ろうとしている「正当な批判」なのだ。これらのことは常軌を逸していない、と本気で思っているんだろうか?

「「被差別部落」=「ヤクザ」=「非寛容で厄介な性格」との偏見を助長し、被差別部落出身者全体に対する差別を助長」は読んだ限りでは正当な批判だが、それにとどめておくべきで、政治家に対する批判や権力監視活動を萎縮させるような批判(本エントリー前段(「ただ」以下)で取り上げたような)は慎むべきだろう。

「記事中では」某所に「「被差別部落がある」と明記されています。差別図書『部落地名総鑑』を例に出すまでもなく、被差別部落の地名は差別につながるセンシティブ情報として極めて慎重に取り扱うべき情報です。近年、「土地差別調査事件」が大きな社会問題となるなかで、あえて地名を明記した事実は当該住民に対する重大な差別行為と言わざるを得ません」も、単純には頷けないものである。そもそもそう解釈するのが差別なんじゃないだろうか? 被差別部落とそうでないところは同じであれば、問題があるとは言えないんじゃないか? また、例えば、被差別部落絡みの政治スキャンダルがあれば、地名を出すべき場合もあるのではないか? もっとも、『週刊朝日』の記事では、わざわざ(『「被差別部落がある」』と)書く必要もなく(父親の性格を受け継いでいるという趣旨だから。これが正しいとは言わないが、被差別部落とは関係ない)、「重大な差別行為」とされても仕方がない。

このような抗議では、部落解放団体は、差別を助長し、言論を弾圧する、と言われても仕方ないんじゃないか?