清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

執筆者 もしかして人を 殺したい?

長崎市長が銃殺された事件、2審の福岡高等裁判所で、1審の死刑が破棄され、無期懲役になった。本当は判決文で検討すべきなのであろうが、コラムの批判を兼ねて、9月30日夕刊(東京本社版)に載った「よみうり寸評」(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column2/news/20090930-OYT1T00605.htm
に基づいて検討したい。

「〈被害者は1人にとどまっている〉――確かに事実ではあるが〈1人にとどまる〉とはまこと無神経だ◆そう片づけられては、その1人である死者と遺族はたまらない」→しかし、それなら、事実を述べてはいけないとでも?言葉のあやだろう。

「この公判では弁護側が「被害者は即死し、苦痛の時間はなかった」「市長は3期12年務め、志半ばで世を去ったわけではない」と主張するなど、遺族には耐え難い経過もあった」→しかし、この発言が被告人の利益になりうるならば(前者は残虐性、後者は無念度が小さいと言いたかったのだろう)、主張はしてはいけないとは言えない。被告人の弁護人は、時として「遺族には耐え難い」ことも言わなければならないことがあることぐらい、わからないとしたら、司法のことは書くべきではないな。なお、意味はわかると書いたつもりで、支持を表明しているわけではない。

「「被害者は1人にとどまる」の主張だけは「十分考慮した」判断になった」→一般論として、被害者が多ければ多いほど犯罪性向が進んでおり、更生の可能性が低いとすることに問題はあるまい(スコット・トゥロー『極刑 死刑をめぐる一法律家の思索』(岩波書店)のように、被害者が1人の場合は死刑を回避すべきだと主張する人もいる)。

「量刑理由は「行政対象暴力としても、選挙妨害としても最悪」」→しかし、そうでない場合の被害者は軽くていいのか、という問題もある。

「「極刑は慎重の上にも慎重に」ということで回避」→これも特に問題はないだろう。読者の皆様、ならびに裁判官は心がけるべきだ。

「「最悪、重大」でも「1人なら……」と犯罪者に誤ったメッセージにならねばいいが」→コラムを書いた人は人を殺したいのだろうか?それはさておき、心配無用。1人を殺して、今までどおり生活できるわけないから(留置場の生活、刑務所の生活を考慮)。

ただ、被告人は暴力団の人。更生可能性があるかは疑問で(前科は他になかったの?)、死刑という選択もあったと思う。しかし、死刑に厳しい批判があることは常識だからなぁ。