昨日、読売新聞朝刊(しかない。仙台では)を読んでいたら、以下のような記事があった。以下では、これらの記事を検討する。
併罎任12版1面)「学力テスト「抽出方式」元年、実施校73%…半数超は自主参加」(2010年3月5日読売新聞。取得日同じ。http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20100305-OYT8T00226.htm)
◆併罎任13版30面)「学力テスト、複雑な親心『不参加を希望する保護者いない』」(2010年3月5日読売新聞。取得日同じ。http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20100305-OYT8T00211.htm)
まず データを示すと、(ア)「全国の小中学校計3万2659校のうち参加校は2万3891校で、参加率は73・2%。国私立を除く公立小中では74・6%で、抽出に漏れた学校の63%が参加を希望していた」
(イ)「全国学力テストは2007年度以降、小学6年と中学3年の全員を対象に3回実施したが、政権交代後、32%の抽出方式に転換。抽出対象から漏れた学校は、自治体や学校の判断でテスト問題の無償提供を受け、自主参加できることにしていた」
(ウ)「文科省は、希望参加の場合の採点や分析費用は学校を設置する自治体負担として」いる
(エ)「教科は国語と算数・数学で、基礎的な知識・技能をみるA問題と応用力を問うB問題からなる。文科省は都道府県別までの成績を公表、過去3回では、秋田県や福井県が上位を占めた」
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「『知識と、その活用能力を同時につかめる絶好の機会。これからも、ぜひ全員に受けさせたい』/全小中学校が参加する新潟市教委の担当者は力を込めた」→情けないなぁ。国にテストしてもらわないと知識と活用能力を同時に育成できないなんて。「同市では、小学5年と中学2年を対象に独自に実施していた民間業者のテストを取りやめ」ともあるが、官から民へのご時世、民業圧迫ともいえる。
「『過去3回のテストで実態はつかめた。予算をかける価値はない』(愛知県半田市教委)」→,離如璽拭淵─砲ら、この見解は一理あろう。
「『自己採点では分析も含め不正確になりかねない』(千葉県鎌ヶ谷市教委)」→公表はするのだろうけど、この懸念も特に問題はない。
「愛知県教委は『抽出率が低く、参加する場合の負担感が増した』と、教師の負担や採点費用が自治体の重荷になったのでは、との考えを示した。/学校現場からは、『新学期で何かと慌ただしく、学校での自己採点は厳しい』(山形県内の小学校長)という本音も」→ゆとり教育とかで、ただでさえ時間がなく、授業時間を増やさなければならないはずなのに、卒業にも関係なく、必要性も感じない(大学入試なら全国規模の競争ならわかるが、小中学校段階で全国規模にする理由が見出せない)テストなんかに割く時間はないはずだから、当然の声だろう。
「愛知県小中学校PTA連絡協議会の八谷順一会長は『各自治体とも事情はあるだろうが、不参加を希望する保護者はいないはず。義務教育段階だから地域で異なるのはどうか』と親の心情を語り」→親の意見を聴け!というのはわかるが、それだけじゃなくて、専門家の意見も聴かないと。苅谷剛彦『教育再生の迷走』(筑摩書房)の本を読んで考えたが、「『地域で異なる』」のには理由がある。つまり、抽出方式には理由がある。金がかからないことと、真の学力を見る(練習を排除する)、という立派な理由があるのだ。苅谷さんでも誰でもいいから専門家の本ぐらい読んで勉強したまえ。
勉強といえば、教育について記事を書く梅村雅裕さんも必要があるな。
「財政面や(中略)負担増」は立派な理由だろう。「『個々の子供の学力を把握』」するのになぜ全国規模の競争が必要なのかも解説できていないし。
「説明責任を果たすべきだ」は正論だけど、聞く耳を持たないと意味ないし(専門家の主張にはそれなりの理由がある、という謙虚な気持ちで聞くべきで、何が何でも学力テスト!だとすれば時間の無駄)。
「今回の抽出への転換は、拙速感が否めなかった(中略)議論を尽くすべきだ」→私含め、自分に都合の悪い意見は、大概こう書く。
「文科省は今後、実施教科や対象学年の再検討に着手する」→これ自体は悪くないが、しつこいが全国規模でやる意味は?卒業の要件にもしない意味は?