清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

読売に トンデモ記事が 2つあり

読売新聞2008年12月8日朝刊(仙台では)には、トンデモ記事が2つあった。

1.社説(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20081207-OYT1T00669.htm
例の神奈川県立神田高等学校の件で、神田高校元校長を支持し、その上で、東京都立日本橋高等学校の事例を出し、学校現場の大変さに同情しつつ、家庭や道徳教育の大事さを論じたものであるが、以下の点でダメである(なお、(1)~(3)のカギカッコ内は、上記社説から引用)。

(1)「問題は、服装や態度という要素が選考基準になかったこと」?基準にすること自体が妥当か、面接試験自体が妥当かを問うべきだろう(司法試験の口述試験のように学力を問うのでなければ面接試験自体が妥当か、ということ)。もっとも、「人生の選択の場にふさわしい服装や態度で臨むのは、確かに常識だ」ということを否定はしない。しかし、「常識を選考基準として明示するのかという疑問」ではなく、「常識」が選考基準として妥当かを問うべきだろう。また、「高校は義務教育ではなく、各校独自の基準があってよ」くても、それが能力を問うものかが問われるべきだろう(憲法第26条第1項、教育基本法第4条第1項参照)。あと、「神田高の入試でも、内申書と面接だけで選ぶ試験で、面接態度が最低評価なら順位を下げることを選考基準に明記した際には、問題は生じなかった」と後で書くのでは、問題意識がダメである(その時に問題にすべきだっただろう)。

(2)ここでなぜか「東京都立日本橋高」とあるが、こういうのは、味噌もクソも一緒にするということで、望ましくない。「ただ、不合格の2人は、校内での暴力行為などを問われた事実上の退学処分だった」ことから、「校長の判断で、退学処分にした生徒は少なくとも一定期間受け入れを拒めるなど、応募資格の変更を検討すべきではないか」との提言は悪くはない。他の国の取り組みが知りたい。

(3)「家庭でのしつけや道徳教育が、極めて大切だ」というのは、あらぬ方向の可能性がある。家庭教育の大変さを慮らず(本田由紀『家庭教育の隘路 子育てに強迫される母親たち』(勁草書房)参照)、道徳教育が今より盛んだった時の暴力事件なども考えていないからである(管賀江留郎『戦前の少年犯罪』(築地書館)参照。直接の関係があるとは言わないが、学力による輪切りの問題はないのか(週刊ポスト2008年12月19日号のほうがマシ)?

2.30ページ「問い語り」
今回は「消えた「大人への扉」」。この連載は意外と内容が公平でよかったのだが、今回はダメだ((1)~(4)のカギカッコ内は、この記事からの引用)。

(1)若い知人の結婚披露宴で、携帯電話で話すのは確かにダメだろうが、.Ε奪リ切り忘れた、通話相手がどうしても都合がつかなかった、なども考えられ、冒頭部分として不適当(というか、腹いせに書いたとされても仕方がない)。

(2)昔の通過儀礼(本文では、「4斗俵を担ぐとか、その地方の険山に登るとか」が出ている)は、今では無理だろう。それ(通過儀礼に意味がないと考える)だけ、物事を合理的に考えられるようになったということではないか。

(3)仮に通過儀礼を復活させても、昔みたいにそれだけで大人ということにはならないだろう。というのは、社会が、若い、大学卒業予定の人を求めているからである。成年を年齢22歳にすることが考えられるが、皇室典範第22条(天皇、皇太子、皇太孫の成年は18年)、児童の権利に関する条約第1条(児童は18歳未満)との兼ね合いから、無理だろう。18歳でとりあえず大人(選挙権など)、職業人としてはその後でもいいとせざるを得ないだろう。

(4)今の問題は、「この国に子供のままの大人があふれる」と根拠もなく言う人がいることだろう。そのような人は、まずは、「「一人前」と認め、相応に遇することを約束すると同時に、大人社会への参加を祝う」ことから始めた方がよい。