読売新聞2012年7月14日朝刊13版「闇サイト殺人 無期確定へ」に、いわゆる闇サイト殺人事件の1人の被告人につて、7月11日付で上告棄却の決定がされ、無期懲役が確定したことが載っている(被告人は3人だが、自首が認められた1人の被告人は無期懲役の判決後、上告なく確定。1人は一審で死刑判決の後、控訴取り下げで確定)。
単に事実を示しているだけならどうということはないのだが、社会部の児玉浩太郎記者の解説までついている、主観というか、読売新聞の主張が出ていると思われる記事になっている(記者の個人的見解としても、会社としてゴーサインを出しているので)。以下、児玉記者の解説を検討する。
児玉記者によると、「事件で3人の死刑を求めた被害女性の母親の訴えは社会の共感を呼び、『娘のいる親として人ごとではない』などとする33万人超の署名が全国から集った(中略)今回の決定に多数の国民が納得するかどうか疑問もある」という。しかし、国民が納得しなくても、裁判官が「死刑に極めて慎重な従来の裁判所の姿勢を貫いた」のだから、ポピュリズム批判の観点からすれば、1人の被告人に対する最高裁の上告棄却の決定による無期懲役確定というのは、素晴らしい判断じゃないのか?
読み続けると、「社会防衛を求める市民感情が裁判員裁判に反映し死刑の量刑基準を動かしていくことも考えられる」とあるが、これもポピュリズムなわけで、憂うべきことではないのか(私は裁判員制度を批判しているわけではない。市民の意向で過去の量刑基準が崩れるのは問題ではないのか、と言いたいだけだ)?
刑事裁判における被害者の発見は理解するが、だからと言って市民が刑罰を重くすべきだとして実際に重くするのであれば、ポピュリズムであり、その結果市民の自由や生命がより侵されるのだから、批判しないとおかしい。それができなかった児玉記者が辞めるか、読売新聞がポピュリズム批判の看板を下ろすかが、今後の読売新聞の注目点といえよう。
なお、闇サイト事件については、前科がないならば、被害者1人なのだから、死刑を回避するのは当然の判断だと私は思う。だから、1人の死刑確定は、死刑存置が絶対としても、残念である。