あいちトリエンナーレを観てきました。時間がなくて、話題の展示もほとんど見ることができず、今は閉鎖されている「表現の不自由展~その後」だけ専門のキュレーターの方にガイドしていただき、鑑賞してきました。
— 三浦瑠麗 Lully MIURA (@lullymiura) September 26, 2019
から始まる、三浦瑠麗さんの一連のツイートを検討する。
一連のツイートは、
苦労して出掛け、並び、なのに質の低いと思われるものに出会った、その表現はさっぱり共感できないものであるか、あるいは作者が自らの無謬性と正義を主張しているものにしか見えない、となれば、脅迫行為は論外にしても、人びとの怒りが集まるのは至極当然の流れだったでしょう。
— 三浦瑠麗 Lully MIURA (@lullymiura) September 26, 2019
大衆的な民主主義の時代においては、一番の権力者は民衆です。彼らに全く受け入れられない「アート展」には持続可能性がありません。公共の場を借りた展示が、多くの人の学習意欲を満たし、十分に教育的で説明的であってほしい、という需要に応えるものになっていくことが求められている結果です。
— 三浦瑠麗 Lully MIURA (@lullymiura) September 26, 2019
という風に続くが(一番最初のツイートからアクセスされたし)、もちろん怒る人もいるだろうし(どんな展示物にも付きまとう話)、「表現の不自由展・その後」が抗議に対する対応が不十分なのは筆者も認めざるを得ない。しかし、「大衆的な民主主義の時代においては、一番の権力者は民衆です。彼らに全く受け入れられない「アート展」には持続可能性がありません」と言ってしまうと、「民衆」が反対したらすべての展覧会が潰せてしまうのだ。そして少数者の人権が守られなくなるという深刻な事態が生じる。
続けて読むと
時代感を考えると、「表現の不自由展」実行委員会が踏まえた方が良い点がいくつかあったと思います。一つは、女性や人種などの問題における自己検閲や苦情電話、不買運動をどう捉えるかという点。89年にローリングKというバーボンウイスキー広告が女性団体の抗議によって撤回された件がありました。
— 三浦瑠麗 Lully MIURA (@lullymiura) September 26, 2019
とあるが、あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」で起こった事件と関係ない。「女性や人種など」の話ではないからである(少女像が「女性差別」だとかいう話ではないから)。
ここからしばらくは連投した順に取り上げてみる。
しかし、性をめぐる問題などでは、ヘイトスピーチに引っかからない「人間の欲望」を表したものであるだけで、撤去され抗議されてきたのは事実です。次に見落とされていた点は、大衆による圧力と権力による圧力を峻別する態度です。
— 三浦瑠麗 Lully MIURA (@lullymiura) September 26, 2019
実際にあいちトリエンナーレが悩まされたのは一般大衆による苦情電話であり、名も知れぬ個人の総体が本企画展を問題視したというのが本件の本質です。であるのに、会場に置かれた「表現の不自由展」実行委員会作成の表現の自由の規制に関する年表は、2001年の政府による表現への介入から始まっており、
— 三浦瑠麗 Lully MIURA (@lullymiura) September 26, 2019
ざっと見渡しただけでも、芸術とはまるで言えない望月記者(東京新聞)の官房長官会見での質問制限など、政治的な対立構図がふんだんに盛り込まれています。年表を見た鑑賞者は、彼らがどのような世界観に立っているのがよくわかったと思います。
— 三浦瑠麗 Lully MIURA (@lullymiura) September 26, 2019
それが彼らの視野の限界であり「表現の不自由展」のような大々的テーマに取り組むうえでは価値観の偏りが否めません。安全が確保された暁には展示を再開し、ボイコット中のアーティストも含めて復活するのはありでしょう。しかし、今のままの見せ方では、人々の共感を広める結果にはならないでしょう。
— 三浦瑠麗 Lully MIURA (@lullymiura) September 26, 2019
慰安婦問題一つとっても、女性の管理売春や戦場での性問題を現代的な問題として捉え、もっとグローバルな価値観で見せ、共感を広げるやり方はありえたと思います。例えば、ニコンの展示室で出展を取りやめさせられそうになった元慰安婦の日常写真の連作シリーズは、なかなか見ごたえがあるものでした。
— 三浦瑠麗 Lully MIURA (@lullymiura) September 26, 2019
三浦瑠麗さん得意の論点ずらし!(笑)
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」の、2019年10月2日現在の説明文でも引用するか。https://aichitriennale.jp/artwork/A23.html より。
ここに展示されているのは主に、日本で過去に何かしらの理由で展示ができなくなってしまった作品です。その理由は様々ですが、「表現の自由」という言葉をめぐり、単純ではない力学があったことが示されています。
表現の自由とは、民主主義や基本的人権の核心となる概念の一つです。本来は、権力への批判を、いつでも、どこでも、どのような方法でも、自由に行える権利を指します。しかし現代において、その対象は為政者や権力者とは限りません。そのため、表現の自由は無制限に認められるわけではなく、他者の人権を損なう場合は調整が行われます。
私たちは、この展覧会内展覧会で、それぞれの作品が表現する背景にあるものを知ると同時に、これらの作品を「誰が」「どのような基準で」「どのように規制したのか」についても知ることができます。(略)
「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する。
つまり、三浦さんは、展覧会の趣旨も知らずに暴走したということ。展示ができなくなった作品と背景を見てもらう事が「表現の不自由展・その後」の趣旨なのであって、「現代的な価値観」だとか「グローバルな視点」だとかの話ではない(それらが軽い問題だということではないが、「表現の不自由展・その後」で起こった問題の本質ではない)。また、「女性への性暴力や性的搾取を扱う」(三浦瑠麗。2019年9月26日午前10時47分。https://twitter.com/lullymiura/status/1177036853775499264 )という話でもない。
先ほどアップした
kiyotaka-since1974.hatenablog.com
で批判した読売新聞の記事もそうなのだが、肝心なのは展覧会の趣旨のはずで、それを無視して論点ずらしをしても自己満足にすぎないだろう。