清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

いいところ ほとんどなかった 河村たかし

報道レベルで、あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」関連の、河村たかし名古屋市長の発言をざっと(すべてではないことをあらかじめお断りしておく。筆者の恣意があることを頭に入れて以下お読みください)取り上げる。

 

まず、数少ない良いところ。

mainichi.jp

(2019年9月25日 20時27分)にある「『全部、津田さんのせいにしている。一人悪者になるのかね』」のところ。私見だが、そもそも津田さんに悪いところはほとんど(ほぼまったく)ないだろう。電話対応の問題が大きいから。

 

次は悪いところ。

mainichi.jp

(2019年9月30日 18時16分)にある「『天皇陛下に敬意を払おうと思っている多くの人たちの表現の自由はどうなるのか』」のところ。別に侵害されていませんが、何か?別のところで展覧会をやったり、出版やインターネットで感想を述べればいいだけ。なお、「『暴力的で大変なこと。表現の自由を著しく侵す』」について。「『暴力的』」については、おそらく「不自由展の再開に関して県側から事前連絡が一切なかったこと」を指しているのだろうが、なぜそれが「『表現の自由を著しく侵す』」ことになるのかさっぱりわからない。

 

www.sankei.com

(2019年9月30日17時41分)で産経新聞が重視している(毎日新聞の記事にはなかった)「『市も主催者の芸術祭で政治的な作品を展示するのは、世論のハイジャックになり、とんでもないことだ』」のところ。

 

そもそも「『政治的』」って何?上記の河村発言の引用が事実とすると、芸術作品に意図が込められればすべて「『世論のハイジャック』」に該当するんじゃない?

 

最後はこちら。

www.yomiuri.co.jp

(2019年10月1日0時11分)にある「『とんでもない。公共的な事業としてやっていいか議論しないといけない』」のところ。

 

しつこいが、「表現の不自由展・その後」のサイトの、2019年10月2日現在の内容を引用してみるか。https://aichitriennale.jp/artwork/A23.html

ここに展示されているのは主に、日本で過去に何かしらの理由で展示ができなくなってしまった作品です。その理由は様々ですが、「表現の自由」という言葉をめぐり、単純ではない力学があったことが示されています。
表現の自由とは、民主主義や基本的人権の核心となる概念の一つです。本来は、権力への批判を、いつでも、どこでも、どのような方法でも、自由に行える権利を指します。しかし現代において、その対象は為政者や権力者とは限りません。そのため、表現の自由は無制限に認められるわけではなく、他者の人権を損なう場合は調整が行われます。
私たちは、この展覧会内展覧会で、それぞれの作品が表現する背景にあるものを知ると同時に、これらの作品を「誰が」「どのような基準で」「どのように規制したのか」についても知ることができます。

(略)

「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する。

この説明文の限りでは、公共的な事業としてやっていいに決まってるだろ!としか言えないなぁ。なぜ展示不許可になったのか、そしてその背景には何があるのかを考えることは公の利益になるに決まってるじゃん、ということである。展示物についてある人が政治的なプロパガンダであると思っても同じことである。

 

読売新聞、三浦瑠麗さん、河村たかし名古屋市長の記事、言動を検討したが、肝心なこと、すなわち展覧会の趣旨をそっちのけで、自分の思った通りに理解したいがために論点ずらしをするさまは、醜い。