産経新聞の政治部・内籐慎二記者が「『あいちトリエンナーレ2019』のマスコミ向け鑑賞会に参加した」模様は
www.sankei.com (2019年11月4日1時)
から。以下に検討する通り、産経新聞らしく(?)トンデモのオンパレードだった。
展示を見て感じたのは、社会の分断が一層進むのではないかとの懸念だ
「分断」という言葉は注意が必要で、「論者の言うことに従え!」という場合がある。「分断」というか、見解が異なることくらい普通にあること。また、議論において相手の立場を全否定することも。
昭和天皇の肖像を燃やすような場面を含む映像作品もその一つ。バーナーで執拗(しつよう)に火をつけており、昭和天皇に対する強い不満を感じた。個人的には嫌悪感しか覚えなかったが、これも「アート」なのだそうだ。
はい、アートです。そしてそれには背景があるらしい。
news.yahoo.co.jp (2019年8月16日17時21分)
でも見とけや!
昭和天皇の作品や元慰安婦を象徴する「平和の少女像」のみならず、企画展が特定の思想や価値観に根ざした作品で埋め尽くされていたことも印象的だった。 ドーム形の作品には「『政府から圧力』相次ぐ告発」「秘密報道の処罰示唆」と書かれた新聞記事などが数多く貼り付けられていた。東京新聞などの記事が目立ち、限られた時間では論調が異なる産経新聞を見つけることはできなかった。
産経新聞の記者さんって、現代日本史も知らないのかしら。いわゆる1950年体制からほぼ一貫して政権についているのは、産経新聞が相対的に批判しない自由民主党でしょうに(苦笑)。だから圧力すらかからない。
壁には元慰安婦たちの写真が掲げられたほか、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句も紹介されていた。これでは安倍政権、慰安婦、憲法について見解を異にする人々とともに「表現の自由」の大切さを考える機会にはなり得ず、社会のさらなる分断を招くだけではないかと思った
「見解を異にする人々とともに『表現の自由』の大切さを考える機会にはなり得ず」ということは、「見解を異にする人々」は一定の表現内容であれば表現されなくても仕方がないと思っているいうこと?そういう人に対する侮辱でしょうなぁ。現に展覧が拒否された作品というだけの話。それはどんな立場でも理解しうるはずだが、内籐さんは自らと見解を異にする人の表現の自由が保障されなくてもやむないと思っているようだ。
帰京後に自民党の衆院議員と意見交換した際、私は「不自由展に反発する人々が対抗手段として特定の思想に染まった芸術祭を開くのではないか。感情的な対立が激化するだろう」と伝えた
それはそれでいいじゃないですか。「『反発』」も「『対抗』」するのも自由なわけだから。問題は展覧を断られたことでしょうに。
と、なんと、 内籐記者は、自由ではなく、犯罪者に味方するかのようなコメントで締めている。「“怒り”」が表面化した(例えば、あいちトリエンナーレ2019に対する業務妨害事件)場合に対症療法するしかないわけで、表現を未然にさせないというわけにはいかないのだよ、理由がなければ(あいちトリエンナーレ2019の展覧物の場合は、誰の権利も侵害していないわけだから、自由があるならば公共の施設で展覧できないとおかしい)。