清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

産経の 人権抑圧 キャンペーン

なんと、日本の産経新聞が、表現の自由という人権の抑圧キャンペーンを張っているという話。

 

www.sankei.com (以下*1)

 

www.sankei.com (以下*2)

 

special.sankei.com (以下*3)

 

まず*1から。

 

筆者は「表現の不自由展・その後」を見ていないことをまずはお断りして。

 

「脅迫が許されないのは言うまでもない」で終わればまともだったが、「脅迫は論外としても、広範囲に起こった批判を実行委員会が真剣に受け止めたとは思えない」と書いてしまったので、産経新聞は「脅迫が許されない」ことを重要視していないと認定せざるを得ない。今回の事件は内容の批判以前の話になってしまっているのだ。脅迫等の犯罪で侵害されつつある表現の自由をどう守るかという話になってしまっているのだ。

 

昭和天皇の肖像を燃やす動画の展示などは、日本へのヘイト(憎悪)そのものである」も飛躍である。たしかに憲法第1条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であ」るとされるが、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあっても「総意」が変われば廃止もあり得るし(筆者の知る限り、憲法を不可侵の「根本規範」とする憲法学説はない)、この条文で大事なのは、主権は天皇に属さないということなのである(各種憲法概説書を読まれたし)。

 

「企画展再開を支持する側は、憲法21条が定めた表現の自由を引き合いに出す。しかし12条は「国民は自由と権利を濫用(らんよう)してはならず公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」としている。/日本の象徴である天皇の肖像を燃やし展示することは、公共性を破壊する反社会的行為である」もおかしい。まともな憲法学の教科書(例えば、芦部信喜憲法』(岩波書店))を読んでいればこのようには書けない。まず、引用した*1の説だと、現在の憲法学説では少数説である一元的外在制約説になっており、公共の福祉を持ち出せばなんでも権利を制約しうるから妥当ではないで結論が出ている。学説は他にもあるが、現在の傾向では他の権利との比較衡量だったり、表現の自由に優越的地位を認めたりということになっている。また、例えば公共の施設で天皇銅像があったのを壊すのは「公共性を破壊する反社会的行為」とし得るが、今回の場合は表現者の作品であり、かつ、例えば毒ガスが出るといったような犯罪・不法行為が伴うわけではないから「公共性を破壊する反社会的行為」のわけがない。

 

「少女像は韓国が史実を誇張、捏造(ねつぞう)して日本非難の宣伝に使ってきた」という事実はないが、たかが少女像にそこまで負わせるのも無理だろう。

 

「多くのまっとうな批判に対して、再開を決めた企画展側は明確な答えを出していない」って、産経新聞の人って「まっとう」という日本語、知らないんですね(クスッ)。産経新聞のような批判ではないから、「まっとう」は。そもそも企画展の趣旨、もう1回確認するか。あいちトリエンナーレ2019HP「表現の不自由展・その後」より。https://aichitriennale.jp/artwork/A23.html

 

ここに展示されているのは主に、日本で過去に何かしらの理由で展示ができなくなってしまった作品です。その理由は様々ですが、「表現の自由」という言葉をめぐり、単純ではない力学があったことが示されています。
表現の自由とは、民主主義や基本的人権の核心となる概念の一つです。本来は、権力への批判を、いつでも、どこでも、どのような方法でも、自由に行える権利を指します。しかし現代において、その対象は為政者や権力者とは限りません。そのため、表現の自由は無制限に認められるわけではなく、他者の人権を損なう場合は調整が行われます。
私たちは、この展覧会内展覧会で、それぞれの作品が表現する背景にあるものを知ると同時に、これらの作品を「誰が」「どのような基準で」「どのように規制したのか」についても知ることができます。/

「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する

である。まずはこれに則った批判をすべきだろう(*1にはなかった)。

 

文化庁が芸術祭への補助金を不交付としたことについて(略)文化庁の措置は安全面の懸念を事前に申告しないなど、申請手続きが不適当だったという理由である」とある。たしかにすでに発表しているから「検閲」には該当しないが(最高裁昭和59年12月12日大法廷判決による)、脅迫行為までの予見は無理に決まっているわけだから「申請手続きが不適当だった」ということを疑うべきだろう。

 

ところで、産経新聞は、以下の東京新聞の記事「トリエンナーレ補助金不交付 文化庁有識者委員が辞意」(2019年10月4日朝刊。https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201910/CK2019100402000120.html )にどうこたえるのかなぁ?以下、一部引用しておくね。

 愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(十四日まで)に対し、文化庁が一度採択した「文化資源活用推進事業」の補助金七千八百三十万円を交付しないと決めた問題で、文化庁が設置し採択の審査をした有識者委員会の委員一人が辞任を申し出たことが分かった。不交付は委員に相談なく文化庁内で決定され、その際の議事録が作成されていないことも判明した。(略)

 辞意を伝えたのは、鳥取大の野田邦弘・特命教授(文化政策)。

 文化庁は不交付決定を九月二十六日に発表したが、野田特命教授によると、事前に委員への相談はなく、二十九日になって同庁の担当者から連絡があった。担当者は不交付は展示内容ではなく、申請内容が不適当という事務的な理由で決めたため委員には諮らなかった、と説明したという。

 野田特命教授は取材に「納得できない。相談なく決めるのなら委員を置く意味がない」と批判。要綱などに定めのない安全性にかかわる報告の有無を理由に不交付を決めたことに「後出し(の理由)で不交付にされたら、自治体はたまったものではない。文化だけでなく、学術研究などあらゆる知的活動が自粛していく」と強い懸念を表した。

 また、同庁が不交付を決めた際の議事録も作成されていないことが判明した。共産党の本村伸子衆院議員が経緯を知るため文部科学省に議事録の提供を求めたところ、同庁から「議事録はございません」と一日付の文書で回答があった。

 回答後に、本村議員が担当者に「恣意(しい)的な決定でないとどう証明するのか」と尋ねたが、「法令に基づき決定した」との回答にとどまったという。本村議員は「異例中の異例のことをしたのにプロセスが分からないのは大きな問題。知る権利や民主主義を守れない」と批判している。

 同庁は、採択は有識者が審査するが、補助金交付は同庁の裁量で、不交付を職員が決めたのは問題ないと説明する。しかし、西尾隆・国際基督教大教授(行政学)は「採択と補助金交付は一体。採択されても補助金がもらえない事態になれば行政システムが機能しなくなる」と指摘。

 さらに、不交付を職員だけで決めたことは「文化に対し、政治や行政は『金は出すが口は出さない』のが原則なので、補助金の対象事業の採択は外部の有識者に審査を依頼している。その後に不交付を事務レベルで決めてしまうのは、政治的な介入をさせないためのしくみを無意味にし、極めて不適切」と批判する。

東京新聞さんの著作権を侵害していないかが心配だが、上記のようなことが仮にあれば*1の「申請手続きが不適当だったという理由」は不成立だろう。なお、東京新聞の報道はおそらく事実で、以下の朝日新聞の記事も取り上げる。

digital.asahi.com

 

*1に戻って、「再開を支持する側は、日本が表現の自由を抑圧し(略。「検閲」につき既述ゆえ)しようとしていると言い募ることで、日本の評価をおとしめようとするつもりなのか。そう受け止めざるを得ない」って、脅迫事件が起こったの、知らなかったの?それで中止になれば「表現の自由を抑圧」になるだろ(苦笑)。

 

「芸術祭の名のもとに社会に反発と混乱を引き起こした責任」って、芸術は感動しか引き起こさないと思っているんだろうか?「反発と混乱」が起こったくらいで表現できないならそちらの方が問題だろう。

 

次に*2。「そもそもこうした展示を企画したことの問題が問われなければいけないだろう」と、八木秀次麗澤大学教授(憲法学)は主張する。答えは簡単。問題ない。過去に展示を拒否されたのはなぜかを考えるのが問題のわけないじゃん。

 

「芸術については、たとえ主催自治体のトップであっても「中身についての議論はしてはいけない」「金だけは出せ」というような風潮が一部にあるようだが、多額の公金を使ったイベントで、芸術といえども表現の自由において特権的な地位はない」 とのことだが、下手に「「中身についての議論」」をすると、それこそ検閲になり得るし、「表現の自由において特権的な地位はない」としても(優越的地位があるというのが通説と理解しているが。だから二重の基準というのが裁判例でも認められていることにつき、前述の芦部信喜憲法』を一読されたし)他者の権利の侵害がないと思われる表現をさせない根拠にはならない。

 

「公的空間での展示については、多くの市民、県民、国民の理解を得られるよう、何が認められて何が認められないのか、どこまでは許されて許されないのかという線引きが必要だ。多くの人たちを不快にしたままで再開を強行したら、余計に抗議や批判を招く恐れがある」?それこそ八木先生の専門でしょう。公共の福祉についての学説すら理解していないようだ。また「不快」くらいで展覧会が中止できるならどんな展覧会もそうなるし、「抗議や批判」自体は自由でそれ自体が中止の根拠にはならない(仮にそれで中止した場合は主催者側の自由意思である)。実際には犯罪が起こっているので、それで中止にできるなら、それこそ「公共性を破壊する反社会的行為」(*1)を正当化してしまうだろう。

 

*3はなぜか有料記事だが、無料部分から読むに値しないことは、賢明な読者なら理解できようが、それを決定づけたのは、見出しの「「表現の自由」への支持後退」である。三浦さん、日本が個人の自由を尊重する建前の国家であることが不満だったんだろうか? 筆者は見出しの付け方の問題だと思いたいが。