清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

現実を 見ないで川渕 バッシング

最近、総合雑誌が読まれていないという。私はデータをとっていないので断言はしないが(そういえば読んでないな。本題と関係ないがあえて言うと、表題を見れば大体の傾向が分かるので時間の無駄だから私はめったに読まない)、以下に取り上げる記事のようなものが載っているようでは総合雑誌は読まれないだろう。

その記事は、中央公論11月号の『サッカーくじと共倒れする日本のスポーツ環境』(新雅史、中澤篤史)である。大まかな内容は以下のとおりである。すなわち、、最近のスポーツ実施は個人で、スポーツ施設を利用しないものが多いが、人々の交流やつながりがなく、健康格差を助長しかねないので、問題である。どうしてこうなったのかというと、そのひとつの原因としてサッカーくじの失敗による地域スポーツクラブ構想の破綻があげられ、それは過剰な学校・企業スポーツの敵視のもとで行われたもので、学校・企業スポーツも同時に衰退してしまった。サッカーくじや地域スポーツクラブなどに期待できない今、スポーツをする環境をよくするには、学校・企業スポーツを過剰に敵視することなく、それらを地域に開放することである。

結論(学校・企業スポーツを過剰に敵視することなく、それらを地域に開放することである)はそれ相応の魅力があるが、議論の進め方がよくない。以下、気づいた点を指摘してみたい。

まず、p177下l19(177ページ下段19行目。以下は左記の表記のみ)で、「これまで、人びとはスポーツ、運動を行うために、グラウンドや体育館といったスポーツ施設へと赴いていた」根拠が示されていない。ついでに言うと、もし、「これまで」がそうで、今がそうでないなら、労働時間(長い?)やストレス(行く気がしないほど疲れている?)について調べなければならないのではないか。

p178の表2も疑問。チームスポーツの実施+両方の実施率は増えたり減ったりだと思うし(ずっと減っているわけではない)、スポーツ実施率(上記にフィットネスのみの実施を含む)の合計はほぼ純増だからいいのではないか。

p179上l8で学校や企業の変化を嘆くが、「教員が勤務外の部活動指導を好まなくなってきた」ことをとがめることは無理だし(本業は教科の教授でしょう)、「部活動そのものを学校からなくしてしまうという動きがある」のは憂慮すべきだが(実施の機会が奪われるから)、学力向上のためにはやむを得ないかもしれない。企業が福利厚生としてのスポーツに見切りをつけたのは労働安全衛生法(第70条)上問題だが、負債をなくすにはしようがないのではないか。

同下l6で孤独に体を動かすことの問題点(人々の交流やつながりがなく、健康格差を助長しかねないので)を指摘するが、どう体を動かそうと余計なお世話だ。ついでに言うと、なぜ、孤独に体を動かすことが多いかというと、健康のためにいい運動とされるのがすべて孤独に体を動かすことだからだ(ウォーキング、ストレッチング、筋トレ。『NHKテレビ・ラジオ体操』参照)。

p180上l15の、「以前ならば、スポーツ行動が集団的に行われ、個々人の自己配慮とは関係なしに、社会の健康度を高めていた」根拠も示されていない(工場のラジオ体操?工場の数はどうなの?)。

同中l5では、バブル崩壊以後のスポーツ政策を、「日本のスポーツは学校体育と企業運動部を車の両輪として発展したのですが、その結果、気軽にスポーツを楽しみたい人たちはスポーツ・シーンから取り残されてしまった」ので、「総合型スポーツクラブを目指」す(「Jリーグ百年構想」右記ホームページ。http://www.j-league.or.jp/aboutj/rinen/06_100_05.html)ものとしたが、実際は「スポーツ実践の日常化、個人化」を招いたとするが、唐突である(2段落上のように、健康志向が大きいとも考えられるから)。

p181で表題の「サッカーくじ」が出てくるが、サッカーくじがJリーグの成功やサッカー人気の楽観的見通しのもとに作られたと批判するが、これも根拠が示せていない(黒字クラブ、観客動員数、視聴率が示せていない)。明らかなのはサッカーくじの失敗ぐらいで、なぜ失敗したかを分析すべきである。

p183中l2「企業のおこなう福利厚生に対して補助金」とのことだが、高くないとやはり企業は施設を売るのではないか。

同中l4「労働の場におけるスポーツ環境を整え」ても、仕事が忙しく、残業も不可避ならば従業者も利用しないのではないか。

同中l9「忙しくてスポーツをする暇のない従業者たちが気軽にいつでもスポーツをできるようにする」ことが実現できるのもごく一部だろう(中心地にオフィスがある企業には無理だろう)。

同中l18「企業や学校でスポーツを気軽におこなえなくなった」根拠も示されていない。そもそも「スポーツを気軽におこなえて」いたのか。アスリート養成の企業チームのある事業場で従業員は気軽にスポーツをしていたのか。学校の場合部活動に所属していない人は(昼休みをのぞいて)気軽にスポーツをしていたのか。

以上、本文に即して批判していたが、それ以外の感想をいくつか。
(1)個人スポーツの組織化で考えられるのは、登山サークルやランニングクラブ(ウォーキングからの発展としてはずっと現実的)だが、これらは学校・企業スポーツの開放にこだわってもしようがない(企業や学校に登山サークルやランニングクラブってあるの?)
(2)この記事がこの雑誌で書かれたのは、渡邉恒雄さんの意向が大きいか。かつて、サッカーでも分裂騒ぎがあり(読売がJリーグを脱退して新リーグを作ろうとした。魚住昭渡邉恒雄・メディアと権力』(講談社文庫)参照)、その理由は企業名を名乗れないことの不満だったと記憶するが、この記事もその当時以来のの企業スポーツ擁護のために書かれたのだろう。
(3)この記事を書いた御両人は東京大学の博士課程の人だが、いかにも象牙の塔にこもってばかりの文章だな、と思った。大学みたいに生徒や職員が気軽使える施設を持っている企業がそんなにあるか?