清高の ニュースの感想 令和版

題名川柳・内容超一流!

刑事弁護 批判は大馬鹿 野郎かな

オウム真理教事件の裁判が一段落し、紙で取っている読売新聞には、「終結オウム裁判 17年目の決算」と題した連載が載っている。
 
今日は第4回(読売新聞2011年11月25日朝刊13版34面)。
 
松本智津夫・死刑囚の弁護団が「重箱の隅をつつくような質問」をしたのだという。また、「公判の開廷ペースを巡っても裁判所と対立した」という。読み進めると、「弁護団の中には、死刑判決を見据え、『できるだけ裁判を引き延ばして執行を遅らせることが被告の利益になる』という意見もあった」とか。
 
これらを見て、弁護団はトンデモナイと思ったあなた、大馬鹿野郎である。以下、理由を記す。
 
「重箱の隅をつつく」というのは、あくまで記者の主観で、事件の範囲が広ければ、相応の時間がかかるのは当たり前だし、質問をしないことによって重い罪になったら取り返しがつかないので、「重箱の隅をつつく」という批判はダメである。「公判の開廷ペース」だって、弁護士もほかの仕事を抱えていることを裁判所が配慮しないことが問題かもしれないので、引用した文章では判断できない。死刑判決が予想できるのなら、「『できるだけ裁判を引き延ば』」すのは極めて合理的で、これも批判できない。
 
死刑判決が予想される場合の引き延ばしについて補足すると、だから死刑はダメなのである。日本の場合、必ずしも6か月以内に執行されていない(刑事訴訟法第475条第2項参照)現実があるのでマシな面もあるが、厳密に6か月以内に執行されるとすると、引き延ばしは極めて合理的なのである。同様のことは、仮釈放なしの終身刑にも当てはまる。というわけで、最高刑を無期懲役にして、釈放される可能性を残しておかないと、引き延ばしが立派な戦術になってしまう。この程度のことを理解していないならば、大馬鹿野郎だといわれても仕方ない
 
それにしても「長期審理教訓に迅速化」という第4回の内容は、被告人の利益に関する考察ゼロのクズ文章である。「迅速な」(憲法第37条第1項)裁判でも、「公平」(同)で「充分」(憲法第37条第2項)な審理が尽くされなければならないからである。
 
読売新聞の記者のレベルの低い文章はまだある。例えば、2011年11月22日朝刊12版27面で、児玉浩太郎記者が書いた「16年余り 長引いた裁判」.を検討する。
 
松本死刑囚や一部の弟子たちの裁判では、弁護側が地下鉄、松本両サリン事件の負傷者の証拠に同意しなかった。法廷に証人を呼んで立証しなければならなくなり、裁判長期化の懸念が強まる」とあるが、「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を十分に与えられ」(憲法第37条第2項)るし、「自己に不利な証人を尋問し又はこれに尋問させること並びに自己に不利な証人と同じ条件で自己のための証人の出席及びこれに対する尋問を求めること」ができる(市民的及び政治的権利に関する国際規約第14条第3項(e))という条文すら理解できない、人権屋の文章である。
 
児玉記者の人権屋ぶりはまだ続く。「松本死刑囚の2審では、東京高裁が06年3月、弁護人が控訴趣意書を提出しなかったことを理由に公判手続きを打ち切った。『死刑を宣告された被告の審理を受ける機会を奪う恐れをもたらした』。高裁決定は弁護人を厳しく批判した」も、問題意識が全然ない、手前勝手な人権屋の文章である。「打ち切った」こと自体が問題なのだ。もちろん、刑事訴訟法第386条第1項第1号(期間内に控訴趣意書を提出しない場合は決定で控訴を棄却しなければならない、という規定)は理解する。しかし、この条文を死刑判決が出た事件に使うことを批判できないのではダメだ。「死刑を言い渡されたいかなる者も、特赦又は減刑を求める権利を有する。死刑に対する大赦、特赦又は減刑は、すべての場合に与えることができる」(市民的及び政治的権利に関する国際規約第6条第4項。刑法(法律)より上位の規範(国際法))という条文の趣旨も考えていないのでは、やはりダメだ。
 
それにしても、新聞記者は、自分の表現の自由だけは声高に主張し、他人の権利などどうでもいいという、人権屋というか、手前勝手な人間が多いと思うのは、気のせいか。
 
最後に付言。弁護側としては、迅速な裁判の一方で、十分な審理が欠かせない。ゆえに、「重箱をつつく」ことをやめさせることは難しい。検察側が公訴事実(刑事訴訟法第256条第2項第2号)を絞るしかない。刑事裁判は、真相の全解明の場ではなく、被告人に刑罰を科することができるかを決める場なのである。