読売新聞2011年9勝ち1日朝刊12版12面「気流」に、「才能ある教員 定年後も活用を」(筆者は伏せます)と題する投書があった。
灘中・高の98歳の先生の話から、「才能ある教育者には、もっと活躍してもらうべきだ」とか、「学校は、定年後でも意欲のある教員を活用するよう努力してほしい」とか書いてある。
組織の新陳代謝の問題もあるが、一般論として、「能力と意欲のある教員を活用する」ことは、児童・生徒・学生のためになると思われるので、妥当な投書である。
ところで、本エントリーは、ステラさんの『外的眺望』「君が代起立命令は合憲=元教員の敗訴確定―再雇用拒否訴訟・最高裁」(http://blogs.yahoo.co.jp/stellar_mimiru/62497463.html)
にトラックバックを張っている。
「君が代起立命令は合憲=元教員の敗訴確定―再雇用拒否訴訟・最高裁」によると、「極めて合理的かつ当たり前の判決」だとか、「少なくとも起立・斉唱を拒否するのであれば初めから教職員を選択する必要はなかった」だとか、とんちんかんなコメントに終始している。
「原審の適法に確定した事実関係」(「平成22(行ツ)54 再雇用拒否処分取消等請求事件 平成23年05月30日 最高裁判所第二小法廷 判決」(http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110530164923.pdf)
より)を要約すると、学習指導要領に基づき「『国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱する』」とされる卒業式において、職務命令が出たにもかかわらず、「国歌斉唱の際に起立しなかった」ので、再任用が不合格になったという事件である。
ステラさんや、合憲論がとんちんかん(法律論とは限らない)なのは、教員の能力をほとんど無視していることである。第1審は、東京都教育委員会の裁量を逸脱したものとして、違法とし、原告勝訴とした(憲法違反はないとして)。この構成はあり得るだろう。国旗掲揚・国歌斉唱など、ほんの数分のこと。大部分を占める教科担当能力を無視するのは、恣意的だろう。
ところで、観点を変えて。
いわゆる「『踏絵』」(芦部信喜『憲法(新版補訂版)』(岩波書店、1999。最新版の確認を乞う)。は違憲である。
式典での国旗掲揚・国歌斉唱は、踏絵として機能していると評価している人もいる(例えば、『世界』(岩波書店)2011年9月号 西原博史「「君が代」不起立訴訟最高裁判決をどう見るか 良心の自由の「間接的制約」と「必要性・合理性」をめぐって」。また、『愛国心と教育 (リーディングス日本の教育と社会)』(日本図書センター、2007)もご一読を)。これらからすると、憲法違反の構成も、あり得る。
話を本論に戻して、最高裁の判決文を見た限りでは、担当科目の能力についての評価がない。わずか数分のことで再任用を拒否するということは、才能ある教育者の活用と全く相容れず、日本の教育を考えるうえでは、由々しきことである。
というわけで、法律論としても、教育問題としても、最高裁平成23年5月30日判決などの傾向は(合憲を認めて原告敗訴)、日本に禍根を残しかねないものである。
ただ、態様は問題になりえ、積極的に式典を邪魔するような事例は、懲戒処分等はやむを得ないのかもしれない。あまり一貫性はないが。しかし、教員の能力の評価は、一部だけを過度に評価するのではなく(一事は万事と言うけれど)、総合的に評価すべきである。