朝日新聞デジタル「高橋シズヱさん、日弁連のシンポ辞退 説明なく周知され」(河原理子 2019年3月1日11時07分。https://www.asahi.com/articles/ASM2X619HM2XUTIL04Y.html
)によると、「日本弁護士連合会(日弁連)などが主催し、2日に京都市で開かれる死刑制度をめぐるシンポジウムでパネリストとして参加予定だった、地下鉄サリン事件の遺族の高橋シズヱさん(72)が辞退していたことがわかった」という。この件に関しては、日本弁護士連合会の一方的ミスでいいだろう。
ただ、この記事を見て、筆者は、死刑が被害者感情を満たすものであるか、考えてしまった。
一生懸命生きていれば、消えてほしい人や死んでほしい人がいても不思議はないと筆者は思うが、その感情が尊重されないのは当然としても(たとえ、不特定又は多数の前で「売国奴」と罵られても。刑法第231条の侮辱罪に該当)、殺人罪に該当すれば死刑を求められるのに、傷害致死罪ではだめなのは非合理だと思った。というのは、森炎『量刑相場』(幻冬舎、2011)p128,129に詳しいが、「首」(傍点略。以下同じ)、「腰」、「胸」、「腹部」を刺すと殺人罪だが、「太もも」(p128。傍点なし)だと傷害致死罪(死の結果が生じれば)だという。死んでしまえば同じなのに。
しかし、現行法では、殺人罪の最高刑は死刑だが(刑法第199条)、傷害致死罪の最高刑は、1個なら懲役20年(刑法第205条、第12条第1項)、2個以上なら懲役30年(刑法第47条。想定しにくいが)。被害者感情(遺族含む。以下略)と関係ある量刑とは言い難い。もっとも、最近は、刑法第22章の「わいせつ、強制性交および重婚の罪」は重罰化傾向にあり、強盗罪(刑法第236条第1項)は刑が軽くなる傾向にあるが、筆者は被害者感情も慮ったものと理解している。したがって、刑罰に被害者感情を入れてはいけないわけでも、全く入っていないわけでもないし、それは肯定的に評価する。
だが、筆者は森炎氏の著作を読んでヒントを得たが(どの著作かを記憶していない)、死刑と懲役では比較のしようがないので、その点からも死刑を正当化するのは難しいと思った。
というわけで、死刑を存置すると矛盾が生じるので、現行法を前提とすれば重罰の部分は懲役で一本化すべきだと考える。